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空降るでいず

じゆうな いろで えがいて みよう

「おおかみこどもの雨と雪」を見るとどうしても泣いてしまう

 昨日「バトルシップ」と一緒に「おおかみこどもの雨と雪」を借りてきたので、見た。ブルーレイで見る富山の大自然(アニメだけど)。
 この映画は公開時にも見に行ってて、そのときは人目もはばからず号泣してしまった。今日見てもそれは同じで、ラストシーンは涙で画面が見えないんじゃないかというくらい泣いてしまった。なんでラストシーンで雨が狼として生きることを選んで母の元を離れていくところで泣いてしまうんだろう、それを考えると自分の今の状況が浮き彫りになった気がした。

昔の僕の話

 僕は(今もそうだけど)元々内気な子どもで、作中の雨と同じく人前に出るのも嫌だしすぐ帰りたがるような子どもだった。
 幼稚園のあるとき「世界名作劇場」のとある登場人物を見てヴァイオリンを自分も弾いてみたいとずいぶんと駄々をこねたことがある。なんとかしてやってみたいとずいぶん頑張った記憶はあるけども、結局は金がかかるやらなんやらで突っぱねられてしまった。そこで僕はきっと「なにかをしたいと願おうと、それを言ったり行動したりすると必ず止められてしまう。自分が何かをしたいと願うことは悪だ」というふうに幼稚園児なりの解釈をしてしまったんだと思う。
 おまけに体操や水泳、のちに剣道に塾とやりたくもない習いごとばかり押しつけられた。この辺はみんなそうだと思うけど。これをやる意味や価値は何も教えられないまま見よう見まねでやらされ、向き合うような気持ちももてず、自分が一体何の意味があって何をやっているのか全く分からなくなって嫌になってやめる、それを繰り返した。幸い「やめたい」と頑張れば(というか、登校拒否のごとく頑として行かなくなれば)なんとか辞めることは出来た。
 ただ親としては自主的に判断して自由にやって欲しいという願いはあったようで、思い出してみると亡くなった父はいつも僕にどうしたいか(選択肢ではなく自由回答で)聞いてくれていたように思う。「○○が欲しい」といえばなんだかんだで買ってくれていた。
 父は聖人君子のような人で、僕がこうしたいと希望を出せば大抵聞いてくれていたし、あまり口出しはしなかったし、父自身の主張というのも聞いたことがなかった。昔話なんてのも聞いたことがない。自分の希望も主張も控えに控え、他の人の主張は文句を言わずに受け入れる。僕にとって父は子どもの頃から常に追いかけなければならない理想の大人だったし、それがあまりに重い負担だったと後に(ここ数年で)気づくようになる。
 父からどうしたいかを聞かれて自由回答で僕が自分なりに考えたことを言う。でそれを母がいろんな理由を付けて拒否する。だいたいこのパターンだったんじゃないかな。

 総合すると以下のようになる。

  • 自分の意見を主張することは悪である。よって、基本的には主張はなるべく控えなければならない。どうしても必要があるなら誰にも気づかれず行動せよ。
  • 自分のことは人に語るな
  • 自分に与えられた権利は拒否を表明することと物を入手すること。
  • 人の意見は自分を犠牲にしてでも最大限尊重せよ。

 明文化したことはないものの、小学校の頃から大学を出るまでずっと無意識でこの方針に従っていたと思う。自分の意見が駄目で人の意見は尊重せよという歪みが生じているけれども、明文化したこともないのでそんなおかしなところが出来上がっていることにも気づきもせず生きてきてしまった。
 自分自身のことを語らず、主張もなるべく控えよという規制が出来上がっている以上、性格もどんどん内向的になっていく。控えめに謙遜したり冷静な自己評価をしていたつもりがどんどん過度になっていつの間にか完全な卑屈になってしまい、人と意見が衝突すれば相手の意見をあっさり優先してしまう。物事も決められず過度に優柔不断になっていく。
 いつの間にか、「自分がない」とか「どうしたいというのもない」とか「自信が無い」とか親にまで批判されるようになってしまっていた。

限界

 最近僕が悩んでいるのは、この積み重ねに自分自身が限界を感じていることだと思う。
 元々人と接するのが苦手だし、発達障害なのか何なのか人とコミュニケーションを取るというか人が何を考えているのかを悟る能力が無いし。そんなこともあって、かつては他の人も自分と同じような考えをしているかあるいは追々それくらい割り切って生きねばならなくなるんだろうと勝手に思っていた。いつかは自分自身を犠牲にするのだと。
 ところが働くようになって衝撃を受けた。そんな奴はどこにもいなかったのだ。そりゃあトップダウンで動いているかもしれないけど、個々が個々の発想で個々の主張を活かしてやっている。トップは過去の自分とはあまりに真逆で、いますぐ横にある芸術的価値のよく分からない壺で頭を叩きたいくらいとってもわがままだ。今まで20年かけて心をなくし続けてきた努力は一体何だったのか。
 この3年弱は、そのギャップに頭をくらくらさせ続けることに費やさざるを得なかった。僕が今までやってきたことは無に帰り、手元には何も残っておらず、想像力のハンデもどうやらありそうだと。
 だから今まで構築してきた自主規制は一旦解いて、自由にやっていいんだ*1と思うけど、正直言うと今まで規制たっぷりだった分どう考えてどう過ごせば良いのかがもう全く分からない。僕にとっての落としどころが見えなくなってしまっている。

「おおかみこども」での判断

 話が脱線しすぎた。「おおかみこどもの雨と雪」は、狼男と恋に落ちた女性が、狼男との間に2人の子どもを授かるも、彼が亡くなってしまい女手一つで子ども二人を育てていく物語。子どもたちは狼にも人間にも姿を変えられるので、どちらとしての生き方をさせれば良いのか悩んだり、また子どもたちもいろんなことを経験しながら成長する姿が描かれている。
 ネタバレすると、姉の雪は人間として生きることを選んで中学に進学するし、弟の雨は冒頭にも書いたとおり狼として山の中へ去って行く。
 僕はもしかしたら雨のことを羨ましいと思って見ているのかもしれない。色々あって学校には行かなくなってしまったものの、ちゃんと早いうちに自分の世界を見つけて師匠についていろんな経験を積んでいた。そして今までいた世界を離れる勇気があった。気弱だった雨が多少無理にでも自分の見つけた世界へ向かって走って行く姿が眩しくて仕方が無いんだと思う。僕と似たような弱さだらけだったのに、すごく遠くへ行ってしまった感じがする。
 決断と、決断に至るまでの経験と、それを支える感性。僕には時間をいくら巻き戻したってもう手に入らないものばかりのように思えてならない。今からだって遅くない、それは頭じゃ分かってる。でも何をやっても頭に入ってこないんだ、いろんなことが身に入らなくなってしまっている。日々反省することばかりだけれど、それすら毎日忘れていく。いつの間にか「この世に大事なことなんて何一つ無い」とまで思うようになってしまった僕にとって、この映画はヒントを沢山与えてくれているような気がするんだ。でもそれが一つでも多く分からないと前に進めないような気もする。
 もっと、いろんな物事(とくに事のほう)を見て聞いて体感して、しっかり自分で生きられるようになりたいと思える作品でした。また機会があれば見たい。

ところで

 映画の感想と見せかけて自分のことをずいぶんと書いてしまったけれども、実はこれ「いつかは増田で書きたい」と思っていたことでもある。多分増田で書いた方が多くの人の目に触れるし「気持ち悪い」だの「これがアスペかコミュ障か」だのあるいは建設的な意見とかいろんな反応が見られて面白かったんじゃないかなと思う。
 ただ、今回は自分の中で今どう思っているかをある程度書いておきたかったので普通にブログに書いてしまうことにした。たまにはいいじゃない、ね。

*1:一度「自由にやらなきゃいけない」と書いてしまった。権利ではなく何事にも義務感で挑んでいるのも悪いところ